戒名などのお寺へのお布施
葬儀のときのお布施の額や戒名代?などが高額なので驚く話もよく聞きます。
本来、院号と呼ばれる戒名はお寺に貢献した檀家に付けるもので、今まで何も貢献していない人が欲しいと言えばその時に一括でお布施することになります。
ろくに信心もないのに見栄で院号が欲しいならお布施するのは当たり前だと思います。
戒名を自分で付ける話も聞きますが何の意味があるのか理解できません。
仏教では自分の業に従って次の生が決まると言われています。
戒名や葬儀のお布施は追善供養的な意味で価値があると思いますが、本来生きているときに功徳は積むものですし檀家として檀那寺に貢献すべきでしょう。
経典によると布施をする相手は、動物、戒を守っていない凡夫、持戒の凡夫、預流果から阿羅漢、仏陀を主とするサンガと順番に高くなります。
良く肥えた畑に種を植えれば多くの実が得られるように福田であるサンガにお布施することが一番と言われています。
一方、布施者も戒を保った状態でお布施することが勧められています。
お布施するときの気持ちは見栄や義理などでなく、在家の務めとしてお布施するのは当たり前の気持ちで、これからお布施することができるのを喜び、お布施する瞬間も喜んで、お布施した後も思い出すたびに良いことをしたと喜べることができると非常に徳が高い布施となります。
お布施をするときには「このお布施の功徳が涅槃の縁となりますように」と祈願しながら行うことも勧められています。
葬儀社からお布施の相場をいわれ、親族など故人の関係者に対し院号でないとみっともないという見栄で、お布施のする前、お布施する瞬間も仕方ないと思い、お布施した後も布施の額が高いと文句を言ったとしたら功徳が得られるでしょうか?
妻帯し五戒さえ守らず、自宗の教義も学ばない上に信心もない僧侶が葬儀を担当したら功徳があるでしょうか?(浄土真宗は妻帯、飲酒は問題なしかもしれませんが)
施す者も施される者も施物も本来的に空であるとして三輪体空・三輪清浄、執着の心を離れてなされるべきものと大乗仏教では言われていますが、テーラワーダ仏教の見方から言えば空は瞑想して体験すればいいだけでお布施するときはお布施の功徳を得るために空など思い浮かべる必要はありません。
質問
1. 義理だから、人に言われて止む無く、世間体で、といった理由でお布施しても善行為ですか?
前後に不善心が伴っていると思いますが、理由はともかくお布施することは善行為です。
2. 生活に負担をかけてでもお寺にお布施し、家族が生活に苦労する、というお布施に疑問を感じます。どんなかたに、どんな気持ちでお布施すればよいですか?
お釈迦様は収入の三分の一で生活することを勧め、三分の一で生活して余ったらお布施するようにと説いています。
負担をかけてまでお布施することは勧めていませんが、波羅蜜を積む気持ちになると別次元になります。
本人が波羅蜜を積みたくてお布施し家族が同意しない場合は難しいですね。